空と海の境界の夜明けーーー舳倉島

こんばんは、鳥類部門担当こりんです。

今日は、私の大好きな場所についてのお話です。

このお話を書くのに、どれだけ言葉を尽くせば愛を伝えられるのかと悩むこと数年。

そして今年はじめの能登半島地震を経てさらに書くことに躊躇いが生まれてしまい、皆様に紹介するのがこんなに遅くなってしまいました。

好きをたっぷり詰め込んだため、やや冗長な記事になってしまうことをお許しください。


紹介の前に。

本年の能登半島地震および豪雨災害にて被害に遭われた方へ心よりお見舞い申し上げます。



舳倉島ーーーそれは石川県輪島市の沖合、約50kmの場所に位置する絶海の孤島。

島の海岸線長は5km、海岸に沿ってつくられた道も4kmほど。1時間あれば1周できてしまうちいさな島です。

この島は定住の島ではなく、輪島の海女と漁師が夏の間に漁の拠点として使用する島。冬季になるとこの島に残る島民は非常に少なくなります。

春と秋は渡り鳥のメッカとしてたくさんのバードウォッチャーで賑わい、それ以外にも釣り人、島巡りの人、史跡巡りの人などで客足の途絶えることはありません。

島までの足は1日一往復の定期運行船のみ。

この子の名前は「希海(のぞみ)」といいます。へぐら航路株式会社の所有する中型旅客船舶(船舶番号143374)で、総重量は98トン。安定した船体ながら荒海の日本海を早いスピードで航行し、時にうねりと波に船体を大きく跳ねさせながら舳倉島と輪島を往復します。

荒れた日は荷物が濡れるのでデッキに上がることができません。よく磨かれてワックスのかけられた窓が美しいね……オロロロロ(9勝1敗)

乗り物しやすい方は、吐き気どめの薬などを持っていってくださいね。眠ってしまうと楽ですよ。


舳倉島は先ほども申し上げた通り、夏季の漁業拠点として使われてきた歴史のある島です。

しかしこの島の最高標高は12.4mと著しく低く、沖合から見るとぺったりと薄いパンケーキのような形に見えます。

そこでここの女性たちは、漁に出た夫がきちんと島を見つけて帰れるようにと、石積み(ケルン)を建てて島を少しでも高く見せようとしました。

島ではこうした石積みがいたる所に存在し、島の石を本土に持って帰ると罰が当たると言い伝えられています。

たくさんの祈りの詰まったこの石積みが、私は大好きです。


そしてこの島、観音様を含めると神社仏閣が15基存在します。島の西端に一番大きな奥津比咩神社(おきつひめじんじゃ)、そして島一周を囲むように松下観音、大和田神社、源平観音、祇園神社、無他神社、金比羅神社、恵比寿神社、舳倉島法蔵院分院、小舟神社、加川観音、二十番観音、荒磯観音、そして島の正面に海女しか渡れない位置にある弁天神社。

この神社仏閣を目当てに島を訪れる人も少なくありません。

私も、舳倉島を訪れたらまず一周しながら、すべての場所に挨拶しに行きます。

これは無他神社の奥にある龍神池です。昔ここで難破船の錨の毒に巻かれて死んだ龍が成仏できずにいたために、島民が池の底から骨を掬い上げ、供養したそうです。その後、この近くの海にも龍がいるだろうということで、神社をつくり祀ったと伝えられています。

そうした背景からか、無他神社は龍神様とも呼ばれます。


こんな荒磯も立派な漁場です。ウノクリあたりです。

島では岩礁のある漁場を「セ」「クリ」「シマ」と呼び、海底の漁場を「ハエ」「マリア」と呼んでいました。

このウノクリから少し西に行くと、ワカメと岩海苔の多いモダマという磯もあります。

夏の舳倉は干した海藻の匂い!ワカメ、メカブは夏の島の名物の一つです。いちど帰り際に、袋いっぱいの干しメカブとこのワカメを貰ったことがあります。メカブは生でぱりぱり食べても美味しいし、お湯を注いでめかぶ茶に、ワカメはお味噌汁に仕立てても美味しかったです。以降この海女さんとは交流が続いています。

舳倉島の夜明け。島の正面から日が登ってきます。どこか神々しい夜明けは、島民と、舳倉島に宿泊

した者だけが得られる祝福です。

この時間、島民はもう活動を始めています。かつて島では遅く寝ることは恥とされ、自然と早起きの習慣になっていきました。

小学校方面に上がる道から見た島の明け。

このあと少しすると、「本日のわかめ切りは午前10時までです」などの放送が入り、島の一日が始まります。

今日はどんな一日になるかな。わくわく。


この日は海岸線にマガンが降り立ちました。

あまりの保護色に「なんか動いた気がする!」と凝視して数分、ようやく見つけました。

雨の後、二重の虹も出ました。この島は車がおらずとても静かです。

遠くで砕ける波の音、風が梢を渡ってゆく音、自分の呼吸の音、虫の音、鳥の声。

そして耳元で囁くのは……蚊!!!!

この島、とても蚊が多い!しかも本土で見られるアカイエカやヒトスジシマカではなく、特大のトウゴウヤブカです。

その陰に隠れて皮膚に吻を突き刺すのは……イソヌカカ!

まだらの羽が可愛い奴ですが、刺されると強烈な痒みと腫れに襲われます。私は一度、腫れたところが酷い痣になるとこまでいきました。

「大丈夫?このへんウルリが多いから気ぃつけてね」

以前大量のメカブとワカメをくれた海女さん・さちこさんから声がかかりました。うるり?

さちこさんの年代ではヌカカのことを「ウルリ」と呼ぶようです。

「わたしより上の人らぁはアブとか言うけどなあ」「長袖きとき!」朗らかに笑うさちこさんとそのお母様からお昼ご飯と大きな長かんぴょうの実を戴くのはまた別のお話。

夜になると活動を始めるのが、このヘグラマイマイ。舳倉島固有のカタツムリで、ヒダリマキマイマイの離島型です。

この個体は、シラスナ遺跡にほどちかいメダケ林の中で見つけました。

茶色の強い殻にまだらの軟体部、全体的にころんとしたフォルムの可愛いカタツムリです。

この種類は現在私の家で系統保存のため繁殖をしていますが、繁殖に至った経緯など別の機会にお話しさせていただければと思います。

雨が降ってきたので宿に戻りました。舳倉島に民宿はふたつあります。島は野宿が禁止なので、宿泊は二つの宿のどちらかに予約を取らなければなりません。

この日のメニューはハツメの塩焼き、ヒラマサのお造り、かぼちゃの煮付け、イイダコの和物、マダコときゅうりとワカメの酢味噌和え、ネギとミョウガの味噌汁、葉物のおつけものでした。

私のいつも泊まるほうの民宿「つかさ」の女将さんは、料理がとっても美味しいうえに、一流の海女さんでもあるんですよ。


ごはんを食べてあたたかいお茶をしばいていると……食堂のテレビでNHK『ダーウィンが来た!』が始まりました。ふむふむ今日のテーマは……?

「世界初撮影!カマキリが鳥を狩る」舳倉島の回じゃないですか!?!?!?

まさか舳倉島でダーウィンの舳倉島回を見ることになるとは思っていませんでした。

女将さんと宿泊者みんなでテレビを見ます。

リポーター「最初に撮影されたのはこのあたりのようです」ツワブキの叢が映ると、わあっと歓声が上がります「ここかあ!!」

目印のない叢の映像だけでどこかわかってしまう、みんな島の名人です。

和気藹々、この夜は更けていきました……。

いつまでもこの島にいられるわけではありません。

島民じゃないから……そう思いながら、去る時はいつも泣きたくなります。

また必ず来るよ、でもあと何回その機会が残されてるんだろうか。この土地の海女は存続するのだろうか。民宿は。継ぎたいけれど、許しは得られるのか。

楽しかったな。この島が好きだな。島の人が好きだな。次は来年の5月だな。

そう思いながらこの日の自分は島を離れました。


輪島港で下船すると、一日早く輪島に戻っていた海女のさちこさんが出迎えてくれました。

「これ。持ってきまっし。冷凍庫で1年くらい持つから、お正月にみんなで食べまっし」

さちこさん特製の柚子入りのイカ塩辛を3パックも持たせてくれます。

何度もお礼を言って、「じゃあまた、来年の初夏にね!」と手を振って別れました。

2023年、10月のことでした。


今年の元日、滋賀の実家で過ごしている夕方に、大きく、おおきく長く揺れた感触を覚えています。

東日本大震災の長周期地震動を経験していたので、「大きい。どこ。大変なことになった」とすぐに思いました。

能登半島、輪島周辺だということを知った時、平静を装うので精一杯で、パニックになった頭の中は島の大切な人たちのことでいっぱいになりました。

島は?輪島のほうにいる?でも初詣で島にいるかもしれない。輪島だとしても津波がどこまで来るんだ。逃げてほしい。無事でいてほしい。

夜になり、輪島朝市の火災の報道が大きくなると、さちこさんから貰った塩辛に同封されていた住所を見ながら泣きそうになります。さちこさんの家があるところのすぐ近くまで火の手が来ている。

どうか逃げて。みんな無事でいて。

災害用伝言板にさちこさんの電話番号を登録し、伝言がはいったら通知されるようにしました。

電話はかけません。発災直後は回線を圧迫させない方が良いからです。


しかし、発災から一週間後にかけた電話は不通、その後も通じることはありませんでした。

毎日、石川県庁HPの「能登半島地震で亡くなられた方の名簿」と「行方不明者リスト」を確認しました。

毎日、確認しました。そこに知っている人の名前を確認することはありませんでした。それでも、無事なのかそうでないのかは分かりません。遺された家族が、掲載を辞退する可能性もあるからです。


藁にも縋る思いで参加した、2月3日の「令和6年能登半島地震 調査・支援活動報告会」。母校・金沢大学での開催です。転機でした。

地震学をずっとやっていた平松先生は、こうおっしゃっていました。「今までのシミュレーションでは、巨大地震が起きた場合、舳倉島はどうあがいても完全に津波をかぶる予定だった。」

「でも」続ける言葉に耳を傾けます。「今回、地殻変動を伴ったことで津波の被害が小さくなり、全滅を免れた。奇跡だ。」

公演の休憩の間に舳倉の島民の情報を持っていないか聞きに行くと「たしかここ3日くらいのあいだに記事が出ていたはず」とパソコンで見せてくれました。北國新聞!ノーマーク、うかつだった!

さちこさんは無事でした。島にいたにもかかわらず、高台に逃げ、二週間を乗り切って、ヘリコプターで救助されていました。

お礼を言って自分の席にふらふらと戻り、震えました。人間ってこんなに震えるんだなと思いました。完全に腰が抜けて、安心で涙も出ず、ただただ震えていました。


報告会の後、やっと2回目の電話をかける覚悟ができて、久方ぶりにさちこさんと話しました。

「あんまりおっきな声じゃ言えんけどね、ヘリコプターに乗る時、ちょっとワクワクしたんよ」

そう笑うさちこさんの声に、私もやっと笑えた気がしました。


「島の人はみんな大丈夫よ」そう言ってもらえているけれど、この状況はいつまで続くんでしょうか。

渦中にいるあの人たちは、これ以上なくしんどいだろうと想像することしかできません。

さちこさんが好きだと言っていたお店が再開資金を募っているときにいくばくか出資したり、なにができるんだと、うだうだ考えたりするしかできていません。

日常生活で頭の中に、ずっと能登のことが、舳倉のことが離れない感覚です。

どんな状況なのか、会いに行けるのか。手伝えることはないのか。

あの島に、みんな帰ろうとしているのに。


私の大好きな舳倉島。私の大好きな人たち。

あの空と海の境界の夜明けを、もう一度笑って見られる日が来ますように。

祈りの日々をケルンのように高く積み重ねて、いつか神様に見つけてもらえますように。

参考文献

瀬川清子『海女』古今書院 昭和30年

北國新聞社編集局『能登 舳倉の海びと』北国出版社 昭和61年

『海士町・舳倉島 奥能登外浦民俗資料緊急調査報告書』石川県立郷土資料館 1975年

『舳倉島・七ツ島からの手紙』北國新聞社 2010年

フォスコ・マライーニ『新版 海女の島 舳倉島』未来社 2013年

『加賀と能登』石川県発行 大正13年

谷川健一『海女と海士 日本民俗文化資料集成4』三一書房 1990年

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